あぁ、言っておけばよかった。
 飛行機の窓に広がる闇空を見下ろして後藤は思った。耳障りなエンジン音と身体に重くのし掛かる気圧に目を細めつつ、隣で眠る。幼い同僚を窺った。無邪気に後藤にもたれ掛かり規則的な寝息を溢す。その隣には頬杖をついた達海が目を閉じていた。寝てるのか、起きているのか。室内灯の消えた機体の中では、その輪郭すら定かではないのだから分かる筈もない。
 いつも言いそびれてしまう。
 イングランドまで遙々迎えに行って、クラブの、自分の運命をかけたのだということを。ちゃんと言い聞かせてまざまざと知らしめたいといつも思っている筈なのに、何故か顔を見たら忘れてしまう。元チームメイトで四つも年下。体格すら己より小柄で何一つ気後れする要素はないのに、いつだって達海が口を開けばその分口をつぐんでしまうのだ。
 後藤は反射光のついた腕時計を見た。東京に着くまであと一時間というところか。収穫はあったが、それなりに疲労した、長い旅だった。だがこれからを思うと疲れてもいられない。今のうちに少しでも休んでいるのが賢いだろう。後藤は椅子にもたれ掛かり、目を閉じた。
 誰のためにこんな遙々、空を飛んできたんだ。
 言葉で縛り付けてやりたいのに、自由な彼が好きだなんて、我ながら呆れるしかなかった。

「タバコ吸ってる」
 フロントルームを覗いて、達海が言った。女の子を残しちゃおけないからと日付変更前に帰して一人、代わった書類整理をしている最中だった。周囲に山積みされた書類の中に座り込み、咥えタバコの灰を落として後藤は固まる。
 悪いことをしているのを先生に見つかったみたいだ。確かクラブハウス内は禁煙だった。
 後藤は引きつった笑顔をへらと作りながら、指でフィルターを挟み何となく背中に隠した。廊下より室内に入り込んできた達海は器用に書類を崩さぬよう、内のスペースに進んでくる。そう言う達海自身も開封済みのスナック菓子の袋をぶら下げている。廊下に点々と散ったポテトチップスのかすを安易に想像できる。次いで、翌朝汚いと怒する小さな後輩の姿も。
 そういう点では同じくらい悪いだろう。今更隠すようなこともないか。後藤は手を戻して胸ポケットを探しつつ、向かいにしゃがみこんだ達海に言い訳のように肩を竦める。
「ああ、時々な」
「昔は吸ってなかったのに」
「引退してからだから」
 小さな銀の携帯灰皿を取り出し、タバコを消した。残り香と白い煙が棚引き、擦り消える。証拠を胸ポケットにしまうと後藤はにっこりと笑みを作った。
「口寂しいからね」
「…絶対言うと思った、オヤジだから。」
 けっと喉を鳴らすようにして達海は辟易する。しかし通じるオヤジ同士、にやりと口許は緩んでいた。
「こんな遅くまで仕事?」
「まぁな、お前は?達海」
「俺もしてたよ、仕事」
「…みたいだな」
 膝を立てて屈託なく笑う、達海の顔に影が落ちていた。後藤は手を伸ばしその痩せた頬を撫でる。達海は驚くでも嫌がるでもなく不思議そうにその手を見た。親指の腹でつり目の下を撫でる。見間違いでも皺のせいでもなく、達海の目の下は黒ずんでいた。
「クマ。」
 今度は達海が、悪戯が見つかったみたくむず痒くなる番だった。ついと後藤より視線を外したままぎこちなく笑って見せる。
「まぁ、うん」
「何日寝てない?」
「まぁいいじゃない」
 無理矢理な誤魔化しを口にして、達海は頬を覆う後藤の手を掴む。そっと力を込めると顔より離す。後藤がそれに不快を覚える暇もなく、達海は片膝をついて前屈みになった。身体が、顔が近くなってクマがよく見えなくなる。この距離を取られると次いで行うことは予測できた。だからこそ、待ってくれ、と後藤は焦る。
 達海の白い顔も曖昧な返事も、彼が言うようにまぁいいことではないのだ。よくない。ちっともよくない。
 言わなくてはならない。監督としての仕事は勿論信頼しているが、体が心配だと言わなくては。それはイコール彼が好きだから。言わなくてもわかるだろうが明言化してやらないとわからない風情があるのだ、この達海猛という男は。わかっている。だから今だ。今言わなければいつ言えるのだ。今言うから、待って。
 目を閉じることも忘れた後藤に、軽く唇を尖らせて、達海は啄むようなキスをした。
「次の試合も安心していいよ、後藤」
 にへ。気が抜けたようなその笑顔に、また。後藤はタイミングを逃してしまったのがわかった。
 歯痒い、思いを。
 取られた手をゆっくりと解いて、後藤は達海の細い手首に指を巻く。透き通った目で達海が見返してきた。構わずに、抵抗がないのを了承と後藤は手首を掴んだ手を押した。達海の身体が背後にゆっくりと倒れていく。声も音もなく、後藤は達海を床に押し倒し、その両手首を柔らかに握った。
 均衡を保っていた書類の塔が崩れ、白い紙片が達海の上にに散らばっていく。

 東京の名残と、よく通ったお好み焼き屋で腹いっぱい食べて、二人並んで家に帰った。
 明日の朝一の新幹線で、後藤は京都に移籍する。
 会えば会話が弾む二人でも、何となく口が重く気も塞ぎがちで、冬空の寒い木枯らしの中わざと回り道をして歩いている。ぐるぐると家の近くを彷徨いていても身体が冷えるばかりだと諦めがついたのは終電もなくなってから。流れで後藤の家に達海はついていった。
 後藤の部屋はもう空っぽで、スーツケースが一つと、そのまま廃棄予定のマットレスと掛け布団くらいしかなかったから、後藤は余り泊めたくないなと思った。自分一人なら何とでもなるが、達海まで寝苦しい思いをさせてしまうことになるからだ。
 空っぽの部屋先に至るまで、後藤は達海にそのことを言い出せずにいた。ポケットをまさぐり、鍵がない振りをして後藤は取り繕うように笑って謝った。達海は唇を尖らせて了承した。
「まぁ、仕方ないよ」
 頷く達海がいつまでも顔を上げない。後藤はそれを見下ろして初めて、違うと思った。そうじゃないと弁解したかったが、後藤自身も何がそうじゃないのか、わからなかった。だから何も言えなかった。

 あの時言えなかった言葉を、いつだって忘れてしまう。